※本記事の内容はあくまで個人の理解による考察です。
本当にそうかは新海誠監督にしかわかんないよ。
映画+小説で概ね理解
ども、サウナ探偵です。
「すずめの戸締まり」、映画→小説の順で消化しました。
小説のいいところは、発言外の心情描写があるところやね。映画では神のカメラ視点だったのがスズメの目を通した世界になるのが小説の良さ。情報密度がちげぇよ。
小説読んだ現時点で、もっかい映画見てえー。
映画だけのファーストインプレッションはこちら。
人の記憶なんてアテにならんもんやね。
www.sauna-detective.com
小説を読んだ結果、色々と腑に落ちたことがある。
本記事では、映画だけ見た後に残った疑問点や不可解な点、曖昧な点について、小説の内容を踏まえて考察&解説をしていく。
散文的になるので目次をば。綺麗に書き直す元気はなかったよ。
各章は別につながってないので好きなところからどうぞ。
後ろ戸とは
後ろ戸とは、人が住まなくなり放置された廃墟に発生する災いの入り口。
常世と繋がっており、災いは常世からやってくる。常世とは古代日本信仰における異世界のこと。古代なろうファンタジー。あるいは死後の世界、黄泉の国のこと。さまざまな解釈がある。本作では「死者の世界」と定義されている。
→だから人が人生で入れる後ろ戸は一つだけなのか?(一回しか死ねない)
廃墟=死と強い結びつきがある。しかしまだ土地の所有権が人間側にあるという扱いの模様。非常に中途半端、不安定な状態。
そのため閉じ師により閉じられ、放置された廃墟を土地の神に返却することで鎮める。
ダイジンの不可解ムーブについて
本作において、ストーリーを前に進める存在が白猫「ダイジン」である。
草太の魂を椅子に移し、追いかけられることで日本各地の後ろ戸に誘導する(と最終的にスズメは解釈した)という役割を担っている。その正体は要石。作中では神様とも。
人を助けたいのか、殺したいのか、危害を加えたいのか、最後にはまた自ら要石に戻るのも不可解だ。
これは1つの事柄を軸に据えると多少腹落ちする。
それは「スズメ大好き」である。
・解放してくれたスズメにしか興味がない
・スズメと2人きりになりたかった
ダイジンの行動原理は全てここに帰着しているように思える。
スズメが好きすぎて草太が邪魔なので椅子にした。スズメが好きすぎて2人になりたかったので人がたくさん死ぬことを喜んでいた。
環さんを通してスズメに危害を加えるように見えたのでサダイジンを威嚇。
要石となった草太を引き抜こうとした時一回は止めるが、スズメが自らが要石になる意図を告げると協力的になる。→大好きなスズメが要石になるくらいなら自分が要石に戻る理論
んー、一応筋は通るような気がしないでもないけど、不可解なのは変わらんな。
1番わからんのは人が死ぬのを喜ぶくだり。
スズメ曰く、ダイジンは後ろ戸に誘導してくれていたのだそう。つまり災害を回避する意図はあったということ。だとすると、「人が沢山死ぬ(ニヤァ)」の説明がつかない。
加えて、災害回避の意図があったのならば悪役ムーブをせずとも一緒に行けばよかったのでは?はじめに感情的に草太を椅子にしてしまったことが全ての間違いだったのかも?
悪い奴に見えたのは、精神的に子どもで、説明する能力に乏しく言葉足らずだったからなのか?
ダイジンについては自分から語られることが少なく、全てはスズメの解釈によるもののため、答えは不明だ。
東京の廃墟はなんだったのか
あれは皇居の地下。
映画だと明言されてないが小説で明文化されていた。
100年前の災害=1923年の関東大震災時に生じた後ろ戸。
おそらく100年前の時点で皇居の地下に廃墟があり、後ろ戸が生じ関東大震災になったという流れ。
100年に一度レベルの災害を封じるには要石が必要となることが作中で明言されている。
このとき東京側で使われた要石がサダイジン。
これが今回のタイミングで抜けた理由は不明。関東大震災から100年経った(100年に一度レベルの災害が起こるタイミング)だったから?
とすると東日本大震災の時に要石が抜けてないというのは不可解だ。東日本大震災を鎮めるために宮城に要石が刺さってるのが自然のように思えるが…。
あれは100年に一度レベルではなかったということか…?
スズメが後ろ戸をすり抜けてしまうのはなぜか
幼少時に後ろ戸をくぐっているから。
草太の祖父曰く、後ろ戸は生涯で一つしか通ることができない。
スズメは4歳の被災時、母を探す過程で偶然後ろ戸を通っていた。
この後ろ戸はおそらく東日本大震災の原因となった後ろ戸。災害が起こっても後ろ戸が自動的に閉じるわけではないことは、宮城の温泉街で地震が起きてしまってから閉じたことからわかる。
後ろ戸は生涯で一つしか通れない、ということについて、個人的には「人は一回しか死ねないから」だと考えた。
常世とは一般名詞としての定義上、黄泉の国、死者の国である。4歳のスズメは極寒の中歩き回ることで死者の国に一歩足を踏み入れたのではないか?結果として未来のスズメに見送られ、現世に戻ることになるが。
これが草太の祖父の言うところの「後ろ戸に""迷い込んだ""」ということなのでは?
考えるほど何かが滲み出てくるなこの映画…。
後半は、突飛な想像なので話半分にしといてください。
東日本大震災は11年前では?
2022年の現在から見ると2011年の東日本大震災は11年前。しかし作中では12年前の災害とされている。
入場者特典の冊子にも書かれている通り、本作は東日本大震災を扱ったものであることは確定している。
このため、作中時間が2023年の可能性がある。
100年前の災害とされる関東大震災(おそらく)は1923年に発生している。
このことからも作中の現在が2023年という可能性が考えられる。
環さんクッソキレてっけど
ちょっとひいちまったよな。
小説では環さんの実年齢が確定してる。
スズメを引き取った時点で28歳。そこからスズメ第一で現在40歳。
まあ言ってることはごもっともなんやけどちとタガが外れちまった感があったよね。
実際にタガが外れていたのだ。
なんかあれは東京側の要石だったサダイジンとかいうクソでかい黒猫が煽ってたっぽい。
その仕組みは不明。乗り移っていた?代弁していた?定義づけは小説でもなされていなかった。
サダイジンとはなんなのか
わからん。東京側の要石であるということだけは確か。
故郷への道中、道の駅で出てきたことについては謎。
道の駅の駐車場での口論ののち、自転車で故郷に向かう道中、ダイジンとサダイジンを話題にスズメと環さんが笑い合うシークエンスがある。
一応小説では、こうして2人が笑い合えるようにサダイジンが出現したとスズメは考察している。
雨降って地固まる的な。
個人的にはこの説明は非常に無理があるように思ったけど…。だってサダイジンがそうする理由がねえもん。スズメから見た都合のいい解釈でしかない。
なんせサダイジン自身は全く意思表示しないので正解はわからんのだよ…。
あと映画ではあった草太祖父の病室で「お久しぶりです」みたいな件は小説にはなかった。
もしかしたら小説が上がった後に追加されたシーンなのかも。(小説は6月にあとがきが書かれていて、映画のクランクアップは10月)
椅子、どうなってんの?
スズメの誕生日に母親が作る。
→津波で流され常世に紛れ込む(この時三本足に)
→常世にて現代スズメが発見
→常世にて4歳スズメに渡す
→九州にて12年
→草太の魂が入る
→東京で草太もろとも要石に姿を変える
→ミミズに刺さって常世へ
→被災地の後ろ戸から常世に入ったスズメにより引き抜かれる
→草太と椅子は分離してその後はうやむやに
小説ではラストに常世で見つけた椅子は「明らかに新しい」という記述があり、草太と分離した後の椅子と常世で4歳スズメに渡した椅子は別物(というか別の時間のもの?)と考えられる。津波で流された椅子が常世に紛れこんだ、という考え。
もう一つの考えは、草太と分離した後の椅子が超自然的な力で12年分新しくなったという考え。この場合は椅子は12年を永久にループすることになる。
ちなみに4歳のスズメは常世で草太ともニアミスしており、冒頭の「私たちどこかで〜」はこの伏線。
観覧車の通電が止まったのになんで帰ってこれたのか
観覧車は通電が切れても人が乗ってれば重さで回転する設計になってるんだってさ。
まとめ
考えてみると、やっぱり要石周りがどうもザルっぽい印象を受ける。
ラストシーンのために2つの要石を被災地まで持っていく必要があったのだろうけど、特にサダイジンの登場が非常に不可解。
この最後の方の整合性が曖昧になっちゃうのは君の名は。から続く新海誠の特徴な気がしてる。
要するに新海作品はSFチックな事象を扱う割には本質は人間ドラマの方にある。誰がどう思って何をしてどう変わったかが大事で、世界の方には多少無理をしてもらう作風だと思う。
だから別にこれでもいいか、と本作を見てようやく「新海作品の見方」がわかったような気がした。
おわり。