更新日:2020年12月17日
バカが感染するという意味ではない。
頭が悪いとはどういうことか
バカである、頭が悪い、とはどういうことか、いつも考えている。
こいつはバカなんじゃねえか?この人は認識がおかしいのでは?と感じた時、何がそう思わせるのか。
無知の知
1つの答えは紀元前に出ている。
ギリシアの哲学者ソクラテスは当時、知恵者と評判の人物との対話を通して、自分の知識が完全ではないことに気がついている、言い換えれば無知であることを知っている点において、知恵者と自認する相手よりわずかに優れていると考えた。
引用元: ソクラテス - Wikipedia
「知らないことを知らないと理解している者は、相対的に優れている。」
ここまでがソクラテスの主張である。
上記の前提に立つと、自分の知識が完全でないにも関わらず完全なつもりでいる者は相対的に劣っている、ということを論理的に導くことができる。
平たく言うと、「知らないことを知った気でいる奴はバカ」と言うことができる。
新型コロナで炙り出されるバカ
ということを念頭におくと、新型コロナで炙り出される頭の悪い人が見えてくる。
・政治に言及する者
・医療に言及する者
・病原性に言及する者
もちろんそれぞれの専門家、または知識を持つ人が確固たる裏付けのもとに発言をしているのに口を挟む気はない。然るべき役割を持った人が然るべき情報を発信することは自然な流れだ。
だが、専門家でない、必要な知識を持たない人も様々なことを発言する。
「すごい、これが本当なら未来は明るい。」
「信用ならんけど、様子見だね。」
「そんなわけない!撤回しろ!新型コロナはただの風邪!」
問題は最後の奴である。
上の2つはあくまで感想だが、最後の奴は何か断言してる。何をもってそんなわけがないと断言しているのか。浅はかというほかない。
例えば病原性に関する学術論文を覆すならば、追実験による反証か、論拠の誤りを追及するか、不正を暴く、くらいは必要だ。専門知識のない者がとやかく言える領域ではないのだ。
たとえば俺が口を出せるのはせいぜいPCRの原理と、自分の利害に関わる””感想””くらいのものだ。
「考える」は「想像」とは違う
「論文を鵜呑みにして自分の頭で考えてないから新型コロナがただの風邪だと気づかない」という論調の主張をTwitterで見かけた。
全くのナンセンス。わたしは何も考えてませんと言っているようなものだ。
「自分の頭で考える」というのはデータや事実を元に論理を組み立てるということであり、想像や妄想とは違う。
データとはサンプルであり、統計であり、学術論文である。ワイドショーやインターネットのコラムやブログはデータではない。
が、後者のみを拠り所に「新型コロナはただの風邪」とか言い出す輩がいるからタチが悪い。
そんなのは妄想でしかない。
これは実際に風邪に近いのかどうかとは関係がない。
「絶対に当たる」と言って宝くじを買い、当たった時に「ほら俺が正しかっただろ?」というようなものだ。つまり、結果論である。
「絶対に当たる」「新型コロナはただの風邪」と断じるメンタリティの方が問題なのである。
ないことの証明は難しい。悪魔の証明という言葉がある。
新型コロナの病原性、後遺症も然り。
知らない分野に口を出すのがなぜ悪いか
ではなぜ、知りもしないことを発言することが、悪いのか。
結論から言うと、他人を不用意に危険に晒すからだ。
ソフトウェア開発や製造業には「フェールセーフ」という考え方がある。
「フェールセーフ」とは、エラーが起きた時に安全側に振る設計のことを言う。例えば足し算をするアプリケーションに漢字を入力した際に、そのまま処理が進むのではなく、処理が停止する、という具合だ。何が起こるかわからないなら、最悪の結果になるくらいなら先に止めておくと言う考えだ。
司法で言い換えれば、「疑わしきは罰せず」
この考えを新型コロナの例に当てはめると、「新型コロナはただの風邪」はまだ本当にそうなのかもわからないのに「危険側」に振っていることになる。
リスク管理としては最悪手である。
絶対に風邪だという自然科学的根拠があるならいいんだけどさ。多分ないじゃないですか。だって悪魔の証明だもの。
見識のない分野における根拠のない主張は、安全側にも危険側にも振られる可能性がある。危険側に振られる可能性があるから特に悪質なのだ。他人に不要な安心感を与えてしまうからだ。これは間接的に他人に危害を加えていることと同義だ。
余談だが、フェールセーフとセットで語られる「フールプルーフ」という考えがある。こちらはそもそもエラーが起きないようにする設計を言う。例えば足し算をするアプリケーションにそもそも数字以外の入力を受け付けないようになっている、という具合だ。
新型コロナに当てはめれば、「病原性については何も言わず黙っている」ということになる。
ちなみにフールプルーフは和訳すると「バカよけ」。
理解しているという思い込みが演繹をバグらせる
さらにつきつめてみる。こういった人たちはなぜ見識のない分野に口を出せるのか。
理解していると思い込んでいるからである。
知らない分野に知った気で物申せるような人は、頭の中で物事の因果関係を正確に組み立てることができていない。なぜならば因果関係を突き詰めることができれば自分に見識が足りないことに気づくからだ。
思考が論理的でないから気付かない。
論理的でないということは、自然科学的な””覆し様のない””前提に基づいた議論が出来ないということである。
では何に基づいて発言しているかと言えば、感情だ。
側から見れば感情論なのに、自分は全て正しく思考できていると思い込む人は、思考自体はロジカルに行なっていることも多いと思う。AだからB、BだからCという具合に演繹できている。
だが演繹の前提が自然科学的根拠でなく、主観や、感想や、希望なのだ。
気持ちはわからんでもない
ただ、「新型コロナはただの風邪」のような主張をしたくなる気持ちもわからんでもない。
背景には、経済を回さねば、という問題があるのだろう。
飲食店や資金繰りに窮している企業にとっては言うまでもなく死活問題だ。
新型コロナ云々よりも買いに来て欲しい、食べに来て欲しい、じゃないと俺が死んじゃう。もっともだ。
が、だからといって「新型コロナはただの風邪」などという結論に結びつけることはできない。
社会科学(経済学)が自然科学をねじ曲げることは出来ない。せいぜい「感染に気をつけてお店に来てね。こっちも感染対策はバッチリやっとくからさ。」くらいしか言えないはずだ。
新型コロナがどれほどのインパクトをもつのか全容も明らかでない状態で、経済も破綻させるわけにはいかないのは厳しい状況だが、自然科学的事象への向き合い方を間違えてはいけない。
まとめ
いろいろ書いてきたが、言いたいことは大方以下の点だ。
・根拠のない主張で他人を危険にさらしてはいけない
・社会科学が自然科学をねじ曲げることはできない
・知らねえことは黙っててくれ
以上。
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