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池上彰「伝える力」感想&考察 共感力、読解力、伝達力 やっぱり行き着くところは「無知の知」なんだなあ


伝える力 (PHPビジネス新書)


こんな人向けの本だよ。
・言いたいことがうまく伝わらない
・自分は説明が得意だと思っている
・自分の周りは話が通じねえ奴ばかりだと思っている


今更すぎる超ベストセラー

サウナ探偵です。
今更紹介するまでも無い池上彰氏の大ベストセラー「伝える力」を読んだので感想がてら考えたことを書いてみる。

最近出版された「なぜ、読解力が必要なのか」とセットで読むと、理解することと伝えることを総合的に学ぶことができていいなあと思った。

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本書でわかること

本書では以下のことがわかる。

・わかりやすく伝えることがなぜ大切か
・わかりやすく伝えるためのマインド
・わかりやすく伝えるための手法
・上質なインプットの方法


なお、筆者の意図と異なっていたとしてもそれは俺の読解力のせいであって筆者のせいでは無いことを断っておく。


特に参考になった点

特に参考になった点、特に共感できた点を紹介しよう。

知らないということを知れ。

ソクラテスの「無知の知」である。
自分がどこまで知らないかわからなければ、正しく情報収集はできない。ひいては他人にうまく伝えることなど不可能だと言う話。
個人的にここ数年、心に留めておきたいと思っている考え方で、世界の本質なのでは?くらいに思っている。

無知であることを自覚できないと、無根拠なことを自信満々に口走って大怪我することになる。

また、人の助言も耳に入れないので成長しない。


謝罪は「危機管理」になる。

絶対に謝らない人がいる。役職が上だから、女だから、大黒柱だから、客だから、自分は正しいはずだから。

自分(のプライド)を守るために絶対に謝らない、というのは自分を守っているようでいて守っていない。当人だけが納得し、他人の心は離れていくからだ。

今後の円滑な人間関係を考えれば、自分に非があるないにかかわらず、本心であるかないかに関わらず、謝っとくというのが必要な場合は多い。

世の中の多くの人は”””コミュニケーションとして”””これをやっているのに、自分は悪くないから絶対に謝らないという屁理屈を通す人は、妙な奴だと思われても仕方がない。

順接の「が」を使うな。

この真理には、実は自力でたどり着いた。

以前勤めていた会社での話だ。技術者が作成する技術文書の中に、毎回どうしても意味がさっぱり理解できないものがある。
その理由を考え、行き着いた結論が「順接の『が』を多用して無駄に1文が長い」ということだった。

順接の「が」とは、たとえば「昨日リンゴを食べたが、今日もリンゴを食べた」のようなものだ。前後で対立していない使い方。

技術文書とは技術者が読むものなので、多くの場合は論理的に読み解かれる。論理的に読み解こうとする場合、文書内に「が」や「だが」が出てくると、逆接を期待する。
「この後には反対のことが書かれているのだな」と期待して読み進めると、同じ立場の主張や関係ない話が出てきて混乱するのだ。

技術文書は文学作品ではないので、最小限の努力で意味を取れることが最も善だ。箇条書きで十分だ。

その後、順説の「が」を使わないことと、1文を3行以内で納めることをチーム内でルール化した。そうしないと技術文書の“解読”に大半の時間が奪われてしまうからだ。

と、共感したことばかりを挙げてみたが

こういう本は共感したところだけに焦点を当てがちだが、それでは「自分は正しかった」という満足だけで終わってしまう。
これは小説を読んで面白かったーというのと同じで、実生活的にはあまり意味がない。俺は娯楽小説大好きだけど、評論文を読むからには何かを吸収したい。

本質は「それは違うのでは?」とか「何いってるかわからん」と感じたところについて考えてみることではないかと思う。
自分にない他者の価値観について考えてみることが、「伝える力」の向上に寄与するのだと思う。だって相手がどういうスタンスで聞いてるのか考えるってことだからね。

僕は頭でっかちくんなのでなかなか実生活に反映できないんだけどね。難しいね、これ。

マズローの欲求五段階説に当てはめてみる

人が他者と関わって生きる上で不可欠な「伝える力」。

マズローの欲求五段階説に当てはめると、「社会的欲求」を満たすために最低限必要だと考える。他者と関わるための力だからだ。

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引用元: 「マズローの欲求5段階説」を「いらすとや」の素材でイラスト制作 | Normal is Best.

逆に言うと、伝える力がなかったり、読解力が無かったり、絶対に謝らなかったりする人は社会的欲求を満たすことはできない。
満たされるのは1つ下の「安全欲求」までだ。これは危険のない環境に身を置くという欲求だ。飼われてる動物と同じステージ。

こういう人ほど、2段階上の「承認欲求」を満たすべく動くものだ。(図中では尊厳欲求となっているが承認欲求の方が多分メジャー)周りが見えてないから自分の立ち位置をすっ飛ばすことができる。だが決して満たされることはない。
なんだか心当たりがあるというか自分で言ってて耳が痛い気がする。

このテの本を正しく読むには

こういう「こうした方がいいよ本=こうしない奴ってダメだよ本」は、読んで「いるいる、こういう奴。バカだよなー。」って思ってる奴が1番ダメなんだよな。他人をバカにするための読書では無いはず。自分を顧みることに使って初めて意味がある。いるいる、こういう奴、でも俺はどうだ…?とならなければ。

他人に対しての不満や見下す感情は自然発生するものだから仕方ないといえ、同じ問いを自分にも向けないとこういう本は自己完結で終わってしまう。あー俺は違って良かったって自信をつけるためのものではないはず。

そこから実行に移せるかはまた別問題だけど。まずは「無知の知」を自覚することが全てにおいてスタート地点だと思う。


おわり。

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