鈴と小鳥とそれから私とサウナ

思慮の浅い人が大声を出して変えられる世の中はマジでヤバい。

思考が短絡しているということ

小田急線でイカれた奴が女子大生を刺した。 この事件について、「犯人の背景に何があったのか」と言及した人が、叩かれているらしい。

「何があろうとこんな奴は許されない、こんな奴を擁護するのか」と。

俺も個人的には「こんなバカは今すぐ死刑にしちまえ」とは思う。ごく感情的に、許せないというのは完全に同意だ。

だが、犯人の背景について考えることを「犯人を擁護する」と捉える思慮の浅さ、思考の短絡には唖然とする。

犯人の背景を考える人は、被害者に共感していないわけでも、犯人を擁護しているわけでもない。単に""事象""を分析しているだけだ。しかしこれが理解できない人が多いらしい。

分析的思考ができる人はもちろん共感については踏まえている。それを切り離して、分析しているのだから。
一方、分析的思考に””思い至りもしない人””というのはほとんどヒステリーにしか見えない。
身もふたもない言い方をすれば、馬鹿に見えるんだよな…。

しかし、こういった思考が短絡した人がインターネットで大声を上げると世の中が動いてしまうのも悲しい事実である。

日本、いよいよヤバそう

最近、この分析的思考が日本中の誰にもできなかった例がある。
五輪直前となって辞任することになった演出担当者の件だ。

彼らは過去のいじめや、虐殺を揶揄した発言により、五輪に相応しくないとされ、五輪関係者をやめることになった。

彼らが五輪関係者を辞めなければならなかった理由を論理的に説明できる人がいるだろうか?

当時みられた論調は、「いじめをするような奴は相応しくない」「謝ってもいじめられた方はずっと苦しむ」「いじめを武勇伝のように語る神経が信じられない」といったもの。

逆に異議を唱える意見(擁護ではなく)としては「償ったのに許されないのは間違っている」「犯罪者にも更生の機会が与えられている」「何十年も前の話を蒸し返すな」といった具合。

全く違う。完全にズレている。論理がない。
上記の理由は発言者個人がいじめを許せないことに対する共感であり、「感情的な衝動」である。
つぐなったかどうかなどという属人的な要素は判断基準になり得ない。
異議派はやや理性的だが、これも根拠がない。

この様子を見ていて、「日本人、まともな奴はいねえのか…」となってしまった。

小山田氏がやめなければならなかった本当の理由

小山田氏が辞めなければならなかった理由は「いじめをしていた」からではない
コバケンが辞めなければならなかった理由は「ホロコーストを揶揄したネタを公演していた」からではない

彼らが辞めなければならなかった理由は、単純明快で、「五輪の品位を貶めることになったから」である。「貶めたから」ではない。「貶めることになったから」である。

まあ平たく「組織委員会にとって都合が悪くなったから」と言い替えてもいい。

だから着目すべきは「いじめ」ではない。いじめでも麻薬でも窃盗でも強盗でも殺人でも傘泥棒でもなんでもいい、「五輪の品位を貶めた」「組織委員会にとって都合が悪い」ことが最たる原因なのだ。

なぜならばスポンサーに対して印象が悪いのも、市民感情に反するのも、対国外的に体裁が悪いのも、全て「五輪の品位」に集約されるからだ。

では、彼らがその五輪の品位を守る責任は、””””いつ生じたのか”””
ここがポイントになる。

なぜならば、責任がない期間の行動に対してペナルティを受けるいわれはないからだ。

言い換えるならば、「彼らが五輪の品位を守ることを約束した期間はいつだったのか」である。
期間内なら本人の責任、期間外なら任命者の責任、これ以外に論点があるとは思えないのだ。

彼らに五輪への責任が生じたのは、任命された瞬間に決まっている。
企業に入社する前に納期を守る責任が発生しないのと同じだ。

任命され、五輪の品位を守る責任が発生した後に問題行動を起こしたのならば、辞めさせられて然るべきである。契約違反だからである。

しかし、任命された後に過去を掘り出されて辞めさせられる道理はあるのだろうか。彼らは当時は五輪の品位を守る責任を負っていない。

この場合、任命者が「適切な人材を任命する責任を怠った」と考えるのが妥当ではないか。
責任が任命者にある以上、問答無用で辞めさせるのは横暴である。
五輪組織委員会は「俺たちの調査不足で君を任命してしまった。申し訳ないけどやめてもらいたい。補償はする。」と頭を下げるのがスジだ。

なお、いじめ自体は不法行為であり、これを容認しているわけではないことに注意してほしい。五輪関係者をやめさせられたのは司法による処分ではないので、ここでは行為自体の不法度合いは関係ない。

感情的であることを理解していればいい

完全に中立な視点から、感情を排除して構造を捉えなければ、こういった思考に至ることはできない。
この問題は、いじめや虐殺など、感情に訴えかけやすい要素を多分に含んでいたため、多くの人が「思考をすっ飛ばして感情で批判した」よい例だと思う。

いじめは悪いから、五輪の関係者をやるべきでない、という論理が自明だと考える人は、この間をつなげる要素が何段階も飛躍していることに気づく必要がある。

いや、別にそのままクレーマーみたいな人生を送ってもいいけどさ。周りからは馬鹿にされると思うよ。

誤解してほしくないのは、これは論理の話であるということ。
彼らがやめる””べき””かどうかは別として「俺はあんな奴はクズだと思うから絶対にやめてほしい」というのはいくらでも言えばいいと思う。

問題は、個人の感想と確定的な事実を混同することだ。自分が気に食わないから叩いてるのを、正義の糾弾であると錯覚してはならない。おそらく誰にも悪意がないのが悩ましい。
悪意がないからこそ、思慮が浅く、バカであると言っている。

何かを批判するとき、それは正論だからなのか、正義だからなのか、それとも「ただ俺が気に食わないだけ」なのか、一度立ち止まる必要がある。